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第一章 日本の符号速記の歴史

日本の速記術発明者
晩年の田鎖綱紀氏

福岡隆著 1978年発行『日本速記事始』から
岩波書店様ご承諾/文責:津田彌生


日本に「速記」が紹介されたのは1882年。田鎖綱紀氏が研究中の日本傍聴筆記法(ジャパニーズフォノグラフィー)を『時事新報』に発表し、速記符号の講習会を開いた明治15年10月28日が始まりです。この日を「速記記念日」として、平成14年10月26日、120年記念式典が日本速記協会によって開催されました。

田鎖綱紀の家系と生い立ち

田鎖綱紀は、安政元年(1854年)8月15日、陸中国盛岡の田鎖村に生まれました。家は代々南部藩の家臣で、祖父田鎖左膳源高行は南部美濃守に仕えた近習頭で、父田鎖仲高守は武術百般に達し、風流の道にも通じている人でした。綱紀は兄綱郎と妹道子がいる次男坊として生まれました。

綱紀7歳のとき、桜田門外の変があり、この頃から日本の世情は騒然となり、尊皇攘夷派による事件が相次ぎました。翌々年文久2年正月には坂下門外の変、8月には生麦事件、さらにその翌々年の元治元年3月には水戸藩士の筑波山挙兵、7月蛤御門の変、8月長州征伐布告、英仏米蘭四国連合艦隊の下関襲撃と続き、翌慶応元年正月には高杉晋作馬関に挙兵、慶応3年10月には遂に慶喜が将軍職を辞し、12月に王政復古の大号令が下りました。


この維新前夜ともいうべき慶応3年、綱紀14歳のとき、幕末の洋学者として活躍した柳川春三の高弟・幕臣内田弥太郎がたまたま南部家の客となり、綱紀は、内田に就いて英学を学んだことが、やがて綱紀の上京を促す基因となりました。


この年、田鎖総本家の当主が30余歳の若さで死亡。彼には実子がなく、綱紀が田鎖総本家を14歳で相続します。綱紀が田鎖総本家の家督を継いでからの1年というものは奥州にも動乱が続き、翌年7月には江戸が東京と改称され、明治の世となり、明治維新へと進みます。

黙々と英学の研究を続けていた綱紀は、世の中が静かになると、新天地での学問を志し、15歳のとき、実父のいる東京へ行きます。旧藩主南部利恭侯が東京の木挽町に『共慣義塾』を設け、藩の子弟に新知識を身につけてもらうため、米人ガーデナーを招聘して英学の研究を始めていました。綱紀はガーデナーより英学を学び、翌明治2年、東京帝国大学の前身である大学南校へ入ります。


その翌年、17歳のときに、受持教官から、英語教師のスコットランド人ウィルソンを紹介され英会話を学びます。たまたまウィルソンの私邸を訪問したときに、英文雑誌『ポピュラル・エデュケーター』という雑誌の中に奇怪な文字が数ページにわたってあるのを見て驚き、夫人に質問すると、「英国人アイザック・ピットマンの発明したフォノグラフィーです」と。つまり速記文字だったのです。夫人もフォノグラフィーに関する知識がなく、その奇妙な文字の正体はわからないままでしたが、これが後年、綱紀と深いかかわりを持つ「速記」との最初の出会いでした。


当時の大学南校は、まだ制度が整わず、綱紀は失望しますが、海外の新知識が怒濤のように流れ込んでいた時期で、若い綱紀の知識欲は大変盛んでした。


明治4年の春早々、ドイツ人の鉱山技師長・工学博士のガッドフレイが、英語を解する製図の技能ある青年を求めているという誘いに応じ、英学から、志を転じて鉱山学の研究をしようと決心します。そして綱紀は、官命によりガッドフレイ博士に随行して、東山・北陸両道の諸鉱山を見て歩くことになります。

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