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第三章 パソコン~日本語文書入力システムのイノベーション~

本章は、国際情報処理連盟IFIPインテルステノサイエンスコミッティー委員 兼子次生氏の執筆によるものです。

まえおき

 漢字を使う日本語は人々に大きな学習負担を強いてきました。だから、昔から漢字を簡単にしたり、数を制限する改革が行われてきました。

 一方、明治時代から、文字書きを機械化しようという挑戦が続けられています。

 その取り組みの最初は和文タイプの発明でした。和文タイプは手書き文字に比べて読みやすくて、一枚の用紙に収容できる情報量が大きいのですが、文字を打つ速さが分速25文字程度しかなくて、書く速さよりも遅いものでした。また、カナタイプ、ローマ字タイプを用いると、入力が速いものの、一般の人には読みにくいものでした。

 振り返ってみると、文字書きを機械化する動きには3つの流れがありました。

 和文タイプをベースにして、入力の高速化を図るため電動式の動きが最初にありました。

 それとは別の流れとして、印刷工場で活字を拾う作業を「文撰」と言いましたが、新聞社では活字拾いの機械化を図るために、写真植字機や漢字テレタイプが開発されました。

 第3は、電子計算機が登場してから、文撰の目的を含めて1970年ラインプットという方式が開発されて、そのあと、コンピューターをベースにキーボードの多様化が始まります。

 それらの動きと別に、電機メーカーが取り組んだのが日本語ワードプロセッサー(ワープロ)で、東芝が日本で最初のワープロを1978年に発表しました。その後、パソコンを用いるワープロソフトにすっかりかわり、英米並みの入力速度、文書作成の合理化が図られています。

ワープロ時代の盛衰劇

 1980年ごろまで、コンピューターを日本語文字の入力に応用する試みは、使用する文字の数が膨大で、また複雑な文字をプリントするという大きな壁があり、商品化がためらわれていました。

 ところが、小型のコンピューター技術が発展していくと、文書を作成する用途に応用しようという動きが高まっていきます。

 パイオニア精神を伝統とするシャープは、1977年5月のビジネスショーに初めてのワープロを出品しました。

 しかし、ビジネス競争の先陣を切って、東芝は、独自の単文節変換技術を用いた「JW-10」を翌年9月、価格630万円で発売すると発表しました。仮名のキーボードで打った文字から漢字の表記を導くための仮名漢字変換の発明がカギでした。

 こうして森健一が率いる東芝のワープロは新たな文字書き時代を切りひらきました。

 ワープロの基本機能は、(1)入力機能、(2)表示機能、(3)校正編集機能、(4)ファイル機能、(5)出力機能などから構成されています。

JIS配列のキーボード

 キーボード文化に慣れていない日本では、高速、正確で疲れないキー配列がその後も論争点となったのですが、東芝のキーボードはJIS配列でした。

 しかし、シャープは全文字配列のキーボードを戦略的に選びました。キーボードアレルギーが強かったので、シャープではペンでタッチする方式を最初は採用したのです。

親指シフトキーボード

 それ対して、東芝に2年遅れた富士通は親指シフトキーボードを開発して市場へぶつけました。その開発リーダーは神田泰典でした。

 ちなみに、ドボラク理論に基づくローマ字入力システムだったラインプット方式からは、1文字を2個のキーを押して入力する2ストローク方式や3ストローク方式が生まれています。リコーや日立製作所のワープロ、TUT方式(大岩元)はこの流れを汲んでいますし、早稲田速記を電子化したスピードワープロにもこのやり方が入っています。

M式キーボード

 独創的なローマ字入力を採用した日本電気(現NEC)の森田正典は、M式を商品ラインナップに加えて、印刷会社などに普及しました。

 ワープロを最初に選択したのは、速記者でした。1981年3月、東京のある速記会社が一気にオアシス100を30台を大量導入してワープロ速記時代を切りひらきました。それ以来、速記会社では、速記者がオアシスを使って、ソニーの口述再生機トランスクライバーをフットスイッチで操作しながら、能率よく速記録を作成する風景がどこででも見られました。

 個人や地方議会でもワープロを導入して仕事の能率を図るところが続いて、日本語の文字書きのイノベーションが一気に進行したのです。

 オアシスは、もちろんコンピューターをベースにして開発されたわけですが、専用ワープロという種類のコンピューターです。

 パーソナルコンピューターが漢字を扱えるようになって急速に進化していく中で、ワープロ機能が取り込まれていくことになります。ワープロは混とんとした時代へ入っていきました。

 その序章は、日本電気のPCシリーズの88の登場から、翌1982年10月の98シリーズ一号機PC-9801の発売でした。OS(基本ソフト)がMS-DOSからウインドウズへ進化しながら、DOSVへと方向が変わり、日本語の処理は専用ワープロと別れを告げるのです。

 富士通のオアシス、東芝のトスワード、日本電気の文豪、リコーのリポート、日立製作所のワードパル、シャープの書院、キヤノンのキャノワード、三洋電機のサンワード、パナソニックのパナワードなど20社近いメーカーが参入しましたが、2001年ごろには、これら専用ワープロはすべて生産を終了しました。

 ワープロ導入がブームになったころの速記者の声を再現してみましょう。当代第一と表された速記の名手、吉川欽二(元和歌山県議会)は「ワープロを速記者の職業病予防と反訳のスピードアップのため導入したが、手書き時代に比べ、非情に楽になった」と語っていました。朝日新聞社で電話速記に従事してきた籠本芳郎(故人、元大阪速記社経営)は「速記の生き残りには、速記の生産性を高める機械化しかない。従業員の定着のためにも機械化が必要だ」と語っていました。オアシス普及のパイオニア、津田弥生は「ワープロは反訳革命。導入して印刷までの一貫プロセスを整えたので、仕事がふえた」と成果を評価していました。ワープロは速記発展の味方となったわけです。

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